History of the Atletico Madrid Club

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アトレティコ・マドリード

クラブ創設: 1903年
会員数: 78.097人
会長: エンリケ・セレソ・トーレス
 
獲得タイトル: 
UEFAヨーロッパリーグ2回
UEFAスーパーカップ2回
UEFAカップウィナーズカップ1回
リーガ・エスパニョーラ1部 10回
コパ・デル・レイ10回
スーペルコパ・デ・エスパーニャ2回

 

アトレティコ・マドリードの歴史

アトレティコ・マドリードのクラブ創設は20世紀初頭、アトレティコの起源はバスク地方の名門チームであるアスレティック・ビルバオが首都マドリードに創設した姉妹チームに遡り、多くの学生らがそのクラブ設置に関与した。初代会長はエンリケ・アジェンテ氏であり、その数ヶ月後にはエドゥアルド・デ・アチャ氏が就任した。

当時のクラブ・カラーは青と白のユニフォームを着用してプレーしていた。しかしながら、クラブの源流であるビルバオが1910年に赤と白のストライプ変更したことに伴い、1911年にアトレティコ・マドリードも
赤と白のストライプのシャツと青いショートパンツへと追随することとなった。クラブは現在もそのチーム・カラーを維持して着用している。

O’Donnelスタジアムが建設されるまでの間、Julián Ruete氏が舵を取るアトレティコ・マドリードはレティーロ脇のスタジアムにてクラブ史上初の試合を戦った。10年後の1923年にクラブは市街地にスタジアムを構えることとなる。

リーガでの初優勝とタイトル

スペイン内戦中は、フランコ体制の影響もあり、軍隊チーム・アトレティコ・アビアシオンという名称で活動をした時期があり1939/40  1940/41期にリーグ優勝を達成している。なお、クラブ初制覇に貢献した監督は、ヤシン氏と共にフットボール史上最高のGKといわれたリカルド・サモラ氏であった。スペインの年間最優秀GK賞の名称:サモラ賞は彼の功績を偲んで付けられたものである。

1940年代には、ヴィダル、ジュンコサ、シルバ、カンポス、エスクデロらの伝説の5人衆、通称"シルクの攻撃陣"を擁しクラブは徐々に勢いを増していった。さらに、その後はマルセル・ドミンゴ、ベン・バレク、カ-ルソンらの活躍によりクラブは黄金期を迎えることとなった。 

インテル・ミラノでスクデットを5年連続獲得した、アルゼンチン人のエレニオ・エレーラ氏が監督就任後は 1949/1950 と1950/1951に国内リーグ優勝を達成し、大いにファンを喜ばせた。その後もクラブの勢いは衰えず、破壊的なドリブルが持ち味のコジャール、ペイロなどの活躍により1960年代にかけてクラブは再び黄金期を迎えることとなった。

コパ・デル・ヘネラリッシモ(現コパ・デル・レイ:スペイン国王杯)1960/61年の決勝戦、サンティアゴ・ベルナベウ開催にて、アトレティコ・マドリードは宿敵レアル・マドリードを3-2と破り、見事優勝を達成した。1962年UEFAカップ・ウィナーズカップ決勝でもその勢いに乗り、チームはフィオレンティーナを破り初の優勝を飾った

新スタジアム ビセンテ・カルデロン

1966年に開場した新スタジアム"デル・マンサナーレス"はクラブの象徴として新しい歴史を刻んで行くことになった。なお、1970年代のアトレティコはクラブ史上でも稀にみる黄金期を過ごしていた。メンバーには、スペイン代表の監督としてもユーロを制したルイス・アラゴネス氏、デポルティーボの監督を務めたハビエル・イルレタ氏、そのほかエウゼビオ、アベラルド、ウファルテ、ガラテ、らを擁し数々のタイトルを獲得するのであった。 

オーストラリア人の監督でミスター鞭と呼ばれ、厳しい練習で有名であったマックス・メルケル監督の元、チームは7度目のリーグ制覇と
コパ・デル・ヘネラリッシモを獲得した。

1985/1986シーズン、アトレティコ・マドリードはスーペル・コパデ・エスパーニャでFCバルセロナと対戦し、2試合合計3-2で制し、初の優勝を達成した。 

1987年に前会長であったビセンテ・カルデロン氏の死去により、ヘスス・ヒル会長はスタジアムを先代の名であるビセンテ・カルデロンと変更すると発表した。1996年アトレティコはセルビア人監督ラドミル・アンティッチ氏の指揮により2冠(リーガ・エスパニョーラ優勝と国王杯制覇)を達成し、ファンを熱狂の渦に巻き込んだ。特に、強敵FCバルセロナを倒しての優勝は、ファンを大いに満足させるシーズンであった。

この2冠のメンバーにはスペイン代表のカミネロ、キコ、アルゼンチン代表であり、現アトレティコ監督であるシメオネ氏などのタレントを擁し、バルサとマドリーが常に牛耳るリーガ優勝争いに割って入り、リーガ全体を盛り上げた。

しかしながら、1999/2000年にはチームはリーグ戦にて不振に陥り、19位と終わり屈辱の2部A降格となった。翌年は2部Aを4位で終わり、昇格を逃すこととなる。クラブは熱血漢で有名なルイス・アラゴネス氏を招聘し、また若きエース・フェルナンド・トーレスの登場により2部Aを制覇し2期ぶりの1部リーグ復帰を果たした。

ヨーロッパ主要大会への久々の登場と黄金期の再到来

2009/2010年に入りとクラブはUEFAヨーロッパ・リーグを初制覇し、再びヨーロッパの舞台に戻ることになる。このフルハムとの決勝では、ウルグアイ人FWディエゴ・フォルランの2ゴールにより2-1としヨーロッパタイトルを獲得し、久々にアトレティコ・ファンは勝利の美酒に酔いしれるのであった。 

翌シーズンにはエンリケ・セレッソ会長の元、ヨーロッパ・スーパーカップにてインテルを破り初の栄冠を獲得した。チームはその後も好調を維持し、2011/12シーズンにはファルカオの2ゴールなどの活躍により、再び
UEFAヨーロッパ・リーグのタイトルを獲得しアトレティコ・ファンはその優勝に大いに歓喜した。

翌夏にUEFAチャンピオンズの覇者チェルシ-とヨーロッパ・リ-グ優勝クラブとの間で行われたヨーロッパ・スーパ-カップでは、アトレティコは4-1で強豪を退け、見事チャンピオンとなった。

2013/14シ-ズンにはアトレティコはコパ・デル・レイにて10度目の優勝を達成した。対戦相手は永遠のライバルであるレアル・マドリ-ドであり、そのメンバ-はCロナウド、ベンゼマ、モドリッチ、オジルなど各国スタ-がプレーする強敵であった。しかしながら、シメオネ監督の元、統制の執れたチ-ムは、主砲ジエゴ・コスタとDFミランダの2ゴールにより延長となった接戦を2-1と制した。尚且つ、敵地サンティアゴ・ベルナベウでの勝利とあり、選手、クラブ、ファンにとっては誇り高き優勝の瞬間であった。

リーガ・エスパニョーラでも好調を維持したアトレティコは、優勝戦線ではバルサと競り合いながら終盤まで縺れ込むこととなった。首位で迎えた最終38節、敵地カンプ・ノウにて2位FCバルセロナとの直接対決を引き分けとし、18年ぶりに10度目のリーガ優勝を達成した。 

UEFAチャンピオンズリーグ マドリードダービー

UEFAチャンピオンズリーグ決勝は初のスペイン・マドリ-ド勢同士での対決となった。ライバルのレアル・マドリードとの闘いは鉄壁DFゴディンのゴールで終盤まで1-0とするも、終盤間際にゴールを許し、延長戦に突入してしまう。延長ではマドリードに3ゴールを許し、1-4で惜しくも敗北し、念願の欧州制覇は果たせなかった。

翌8月に行われたスペイン・スーペル・コパ(では、2試合合計2-1とし、見事欧州CL決勝でのリベンジを果たした。特にヴィセンテ・カルデロンで開催された第2戦では新加入のマリオ・マンジュキッチのゴールで1-0と勝利し、超満員に膨れ上がったスタジアムでファンは忘れがたき一時を過ごすこととなった。


ヴィセンテ・カルデロン スタジアム詳細

正式名称: Vicente Calderón (旧名estadio Manzanares)
開場: 1972年5月23日
建築家: Javier Barroso , Miguel Ángel García-Lomas
ピッチサイズ: 105mx68m
収容人数: 54.907人
費用: 2.710.564 € (451.000.000 pesetas)
所在地: Paseo de la Virgen del Puerto, 67, barrio de Imperial (distrito de Arganzuela), 28005, Madrid


ヴィセンテ・カルデロン スタジアムの歴史

1950年終盤頃に差し掛かると、現行のスタジアム Metropolitano de Madridスタジアムだけでは収容能力が余りにも小さく、多くのファンが毎試合詰めかけるため、クラブは収容能力の大きい新スタジアムの建設を余儀なくされることとなった。後に、新スタジアムはManzanares(川付近)に設置されることが決定された。

当時のクラブ会長であったビセンテ・カルデロン氏の指示のより、著名建築家Javier Barroso氏がスタジアム建築に取り掛かった。同スタジアムestadio Manzanaresは1966年10月02日に開場した。当時のスタジアムの規模としてはスペインでは最大の収容人数 54.851人を誇っていた。

新スタジアムでの第1試合となったリーガ・エスパニョーラでのバレンシア戦はアトレティコは故ルイス・アラゴネス氏のゴールでバレンシアと引き分けに終わり、記念すべきオープニングを勝利では飾ることは出来なかった。

アトレティコ・マドリード前会長であり、クラブの発展に対し多大な功績を残した故ビセンテ・カルデロン氏を称えて、ヘスス・ヒル会長の音頭の元、スタジアム名がエスタディオ・マンサナーレスから前会長の名前を取り、エスタディオ・ビセンテ・カルデロンと変更された。

新スタジアムのこけら落とし

エスタディオ・ビセンテ・カルデロンの正式な開場オ-プニング・ゲームは1972年5月23日に催された。試合はスペイン代表とウルグアイ代表との間で争われ 2-0と地元スペインが勝利し、スタジアムのこけら落としに華を添えた。

スタジアム開場より、数々の感動をファンに与えてきたアトレティコ・マドリードのビセンテ・カルデロン、リ-グ優勝や2部降格など苦楽を共にしたクラブに対し、ファンの情熱は言葉では説明することが出来ないほど、大きなものであり、人生の一部とも言える。

1976年のビセンテ・カルデロン・スタジアムで行われたレアル・マドリードとの一戦は特別な天覧試合となった。スペイン、ブルボン朝のファン・カルロス王とソフィア王妃及び、アトレティコの大ファンでも有名なフェリペ王子がダービー戦を観戦なされ、アトレティコはその重要な一戦を1-0と制し、フェリペ王子及びファンを喜ばせた。

なお、同スタジアムは1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会でも主要な会場として重要な役割を果たした。

クラブ創設100周年となった2003年には壮大なセレモニ-がビセンテ・カルデロンで催され、スタジアムはチ-ムカラ-であるロヒ・ブランコ(赤と白)での世界最大の旗の登場もあり、大いに盛り上がった。また、アトレティコのクラブ関係者、選手、ファンと共に今後の活躍を祈った。

この年に、ビセンテ・カルデロンはUEFAよりスペインでのスタジアムにおける初の"5ッ星スタジアムの認定"を受けることとなった。なお、このスタジアムのランクはUEFA基準では最高ランク4に位置している。

その4年後には、チャンピオンズリ-グ・グループリーグのホーム試合フランス・マルセイユ戦にてスタジアムのセキュリティー不足及び、アウェ-ファンの暴動を抑えることが出来ず、UEFAより2試合の無観客試合の処置が言い渡される結果となった。

カルデロン・スタジアム開催、その他のビッグイベント

その他、アトレティコ・マドリードはバイエルンが不参加したことによる繰り上げ出場により1974年にはインタ-コンチネンタルカップに出場し見事優勝を果たしている。また、1996年にはリーグと国王杯の2冠を達成し、アトレティコファンを歓ばせた。アトレティコ・マドリードのホームスタジアムであるビセンテ・カルデロンはスペイン代表戦の主要な開催スタジアムとして利用されており、また、コパ・デル・レイでも幾多の決勝の舞台となって来た。

リ-ガでも最も熱狂的なファンを有するアトレティコ・マドリード。試合日となると、ロヒブランコ(赤と白)のユニフォ-ムを着たサポ-タ-でスタジアムは埋め尽くされ、更に試合を盛り上げる。

ビセンテ・カルデロンはフットボールの試合開催の他に、主要なコンサ-トやミュ-ジカル、イベント会場としてマドリ-ドで重要な役割を果たしている。主な有名グル-プでは Rolling Stones, Bon Jovi, U2 ,Coldplay などのコンサ-トが開催され、スタジアムは多くのファンが鑑賞に訪れた。